下柳剛 2013 引退 ストレス解消はわんちゃん [プロ野球選手]
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元阪神で、昨季限りで楽天を退団した下柳剛投手が2013年3月19日についに現役引退を表明した。4球団を渡り歩いたアイアンマンもついに力つきた。
阪神退団後に「現役続行」の思いを強く語っていたことがとても印象的だった。ここ数年は登板回数が減り、思っていた結果がでない納得ができないシーズンだったのだろう。
楽天引退後も現役を続けるためにトレーニングは欠かさず行い、2月にドジャースの入団テストをうけるも不合格。だがここで独立リーグの球団からオファーが届く
しかし鉄人といわれた強靭な肉体が現役続行を阻んだ。
「肩が上がらない。腰にも痛みがある。この状態では契約できない」
下柳剛について調べてみました。
1968年5月16日 長崎県生まれ 184 cm 左投げ左打ち
瓊浦高等学校を卒業後に八幡大学に進学するも1年足らずで中退。
中退後に仕事もせずバイクでぶらぶらする生活を送っていたところかつての恩師の紹介で新日鐵君津に入社。
1988年にエースとして都市対抗野球大会に出場する。予選全試合を自身一人で投げぬき、完投後も200球近い投げ込みを行うほどのタフネスぶりを見せる。
1990年にドラフト4位でダイエーに入団。。
ダイエー入団後は制球難を指摘され、連日バッティング投手、中継ぎ登板という過酷な投げ込みを行い制球力をつけた。
1993年に50試合、1994年には62試合に登板し、連日のように登板する鉄腕ぶりからアイアン・ホークと名づけられる。
連日これだけ登板をしたのは下柳投手が初めてであるといわれている。
1995年には事故を起こし、鼻を骨折。その年のシーズンを棒に振る。その後に日本ハムファイターズへトレード。
移籍後に1997年から99年の3年間は60試合以上に登板、タフネス振りを発揮。
2000年には自身の希望もあり先発に転向。プロ10年にして初完封勝利をあげる。
2001年は故障をして不本意なシーズンとなる
2003年に阪神にトレード。
阪神移籍後は速球で推す速球派から制球力でコーナーをつく「のらりくらり投法」と呼ばれた緩急で打たせて取る技巧派派へ転向。
完投をするタイプではなく6回あたりからリリーフを擁するパターンを確立した。
今でいう100球とか80球で交代という形、これが現役を長くした要因であると野球評論家の江本孟紀氏は言っていた。
2005年に15勝で最多勝。
2008年に40歳で2桁勝利をあげる。
2010年・11年と勝ち星をあげられず阪神を退団。
トライアウトをうけ楽天に入団。
2012年に星野GMの期待で第3戦に先発するも黒星。その後3戦登板するも結果がでず、2軍へ。1軍にあがることなく退団。
フィールディングは機敏かつ柔軟で、クイックモーション、牽制球、一塁へのベースカバーなどの技術は高いと評される。
制球難の克服、技巧派への転向とあわせて下柳投手の努力がものすごくあることを伺える。
苦労をしているのに苦労をしていることをあまり感じさせませんね。
現役を長くする秘訣に「ストレス解消」・「日々のトレーニング」。
ストレス解消は「愛犬とのコミュニケーション」・「カラオケ」という。
契約更改ではかならず犬についての条項がほとんどとい愛犬家である。
イチローの名言「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています」を感じさせてくれる下柳投手です。ほんとにお疲れ様でした。
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元阪神で、昨季限りで楽天を退団した下柳剛投手が2013年3月19日についに現役引退を表明した。4球団を渡り歩いたアイアンマンもついに力つきた。
阪神退団後に「現役続行」の思いを強く語っていたことがとても印象的だった。ここ数年は登板回数が減り、思っていた結果がでない納得ができないシーズンだったのだろう。
楽天引退後も現役を続けるためにトレーニングは欠かさず行い、2月にドジャースの入団テストをうけるも不合格。だがここで独立リーグの球団からオファーが届く
しかし鉄人といわれた強靭な肉体が現役続行を阻んだ。
「肩が上がらない。腰にも痛みがある。この状態では契約できない」
下柳剛について調べてみました。
1968年5月16日 長崎県生まれ 184 cm 左投げ左打ち
瓊浦高等学校を卒業後に八幡大学に進学するも1年足らずで中退。
中退後に仕事もせずバイクでぶらぶらする生活を送っていたところかつての恩師の紹介で新日鐵君津に入社。
1988年にエースとして都市対抗野球大会に出場する。予選全試合を自身一人で投げぬき、完投後も200球近い投げ込みを行うほどのタフネスぶりを見せる。
1990年にドラフト4位でダイエーに入団。。
ダイエー入団後は制球難を指摘され、連日バッティング投手、中継ぎ登板という過酷な投げ込みを行い制球力をつけた。
1993年に50試合、1994年には62試合に登板し、連日のように登板する鉄腕ぶりからアイアン・ホークと名づけられる。
連日これだけ登板をしたのは下柳投手が初めてであるといわれている。
1995年には事故を起こし、鼻を骨折。その年のシーズンを棒に振る。その後に日本ハムファイターズへトレード。
移籍後に1997年から99年の3年間は60試合以上に登板、タフネス振りを発揮。
2000年には自身の希望もあり先発に転向。プロ10年にして初完封勝利をあげる。
2001年は故障をして不本意なシーズンとなる
2003年に阪神にトレード。
阪神移籍後は速球で推す速球派から制球力でコーナーをつく「のらりくらり投法」と呼ばれた緩急で打たせて取る技巧派派へ転向。
完投をするタイプではなく6回あたりからリリーフを擁するパターンを確立した。
今でいう100球とか80球で交代という形、これが現役を長くした要因であると野球評論家の江本孟紀氏は言っていた。
2005年に15勝で最多勝。
2008年に40歳で2桁勝利をあげる。
2010年・11年と勝ち星をあげられず阪神を退団。
トライアウトをうけ楽天に入団。
2012年に星野GMの期待で第3戦に先発するも黒星。その後3戦登板するも結果がでず、2軍へ。1軍にあがることなく退団。
フィールディングは機敏かつ柔軟で、クイックモーション、牽制球、一塁へのベースカバーなどの技術は高いと評される。
制球難の克服、技巧派への転向とあわせて下柳投手の努力がものすごくあることを伺える。
苦労をしているのに苦労をしていることをあまり感じさせませんね。
現役を長くする秘訣に「ストレス解消」・「日々のトレーニング」。
ストレス解消は「愛犬とのコミュニケーション」・「カラオケ」という。
契約更改ではかならず犬についての条項がほとんどとい愛犬家である。
イチローの名言「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています」を感じさせてくれる下柳投手です。ほんとにお疲れ様でした。
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